ゲゲゲの女房を見て内田勝さんについて調べる

  • July 22, 2010 16:23

ゲゲゲの女房にて水木夫妻の元を訪れた雄玄社の若手編集者・豊川。アングラ作家だった水木しげるの才能を見抜き、「てれびくん」「墓場の鬼太郎」を手がけ、水木しげるを人気作家へ導く。

この豊川のモデルになっているのが講談社少年マガジン3代目編集長の内田勝さんです。

このころの時代についてよく知らなかったので、内田氏を中心に調べてみることにしました。

いろいろ調べたのですが「てれびくん」を内田氏が手がけたかどうかはわかりません。「てれびくん」は2代目編集長時代とのことなので、内田氏が編集長になり少年マガジンの編集方針が変わったからというわけではないようです。

しかし、少年マガジンに「墓場の鬼太郎(後にゲゲゲの鬼太郎に改名)」を非常に強い意志を持って登場させ、読者投票で最下位、または最下位争いを続ける「墓場の鬼太郎」を信じ、プッシュし続けたのは内田氏で間違いないようです。

では、なぜ内田氏は水木しげるを押し続けたのでしょうか?

若干30才にして、また、部下の2/3が先輩という状態で少年マガジンの編集長となった内田氏の最大の目標が「打倒少年サンデー」でした。国内初の週間少年漫画誌として1959年(昭和34年)3月17日に同時に創刊された「少年サンデー」と「少年マガジン」は創刊時より当時主流だった手塚治虫&トキワ荘系の漫画家たちを抑えた「少年サンデー」が優勢でした。

内田氏が編集長に就任した1965年の状態としては

  • 少年サンデーは「おそ松くん」「オバケのQ太郎」「伊賀の影丸」を中心にした「明るく、元気な」漫画が大人気
  • 少年マガジンが創刊依頼アプローチを続け、ようやく連載してもらえた手塚治虫の「W3」の設定がマガジンのほかの漫画にアイディアを盗まれたとしてわずか6週で連載終了。少年サンデーに移籍。
  • 大人気だった少年マガジンの「8マン」の作者が銃刀法違反で逮捕。打ち切り。
  • 少年サンデー60万部に対し少年マガジン30万部

と、内容、数字ともに圧倒的に少年サンデーに負けていました。内田は打倒策としてW3移籍騒動によって手塚への反発心もあったことから手塚の影響下にない「線は直線的でするどく、ストーリー構成にしても人間が本来有している光と影の両面のリアルな葛藤を描いていて、"明るく、元気な"だけの(手塚漫画の流れを汲む)ストーリーまんがの対極に位置している(内田勝著「奇」より引用)」劇画路線へ進みます。

その劇画路線第一弾が「墓場の鬼太郎」でした。読者アンケートで最下位をとるなど、なかなか人気がでない「墓場の鬼太郎」の人気獲得のために東映テレビの渡辺亮徳氏と組んでテレビアニメ化を計るなど内田氏は水木しげるへ強力な支援を続けます。

調べていても、数多くあったはずの貸本漫画の中でなぜ水木しげるだったのかは分かりませんでした。内田氏の見抜く力と決断力も、期待に答えてみせた水木漫画も偉大だったというところでしょうか?

内田氏の少年マガジンは「ゲゲゲの鬼太郎」以外にも、

  • 劇画の第一人者「さいとう・たかを」の獲得
  • 梶原一騎原作「巨人の星」「あしたのジョー」
  • 赤塚不二夫の獲得「天才バカボン」

などの人気より、1967年に100万部突破、1969年には150万部を突破し、ライバル少年サンデーを大きくリードします。

「あしたのジョー」の力石徹が作中で矢吹ジョーとの試合で死亡したとき、ファンの要望に答えて告別式を行ったのも内田氏です。

ほんの一部を抜粋しただけでも内田氏が漫画界に果たした役割の大きさがわかります。内田氏の逸話は数多くあり、どれも興味深いものですが、すべてはとても書ききれないので、少しだけ逸話を紹介してこのエントリーを終えようと思います。

ゲゲゲの女房を見て少し興味をもっただけなのに、本を数冊読んだり、webでいろいろ調べたりと、かなりの時間を内田氏を調べることに使ってしまいましたが、面白かったので調べてよかった。

天才バカボン移籍

1969年1月、人気絶頂だった「天才バカボン」の赤塚不二夫が講談社を訪れ、「天才バカボンを少年サンデーに引越しさせたい」と申し入れをした。 それを聞いた編集長だった内田は

「結構です。どうぞ」

と、即答で答えた。揉めると思っていた赤塚不二夫もあっけにとられる即断だった。

理由について内田は後日「シリアス路線の劇画が多いマガジンでこそバカボンが際立っていた。ギャグマンガが多いサンデーでは上手くいかないのでは?」と感じたからと答えている。

しかし、僕はいろいろなエピソードを追ううちに内田氏は人の決断というのを何よりも尊重する人間力からきているのではないかと感じた。

梶原一騎

内田氏は編集会議において

  • どんなマンガが受けているか
  • どんなジャンルのマンガがマガジンに足りていないか

などの議論をすることをやめて

  • 大人になっても鮮烈な記憶として残っている事柄
  • 少年のころに熱中したスポーツ、映画、ラジオ、雑誌、書籍
  • 自分に影響を与えてくれた両親、教師、近所のおじさんおばさん、友人

などについて語り合うことにした。

その結果、従来の「善玉vs悪玉」の図式ではなく、読者である少年たちにとって身近な存在「父親と息子」「教師と教え子」「少年と友人(恋人)」を基調としたマンガができないか模索するようになった。

「そういった人間ドラマを描けるは梶原一騎しかいない」となったが、当時梶原はマンガの原作を書いてはいたが、

「マンガについては、男子一生の仕事にするに足りるとは思っていない。小説の世界で身を立て、名をあげることこそが、私の目指すところだ」(サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年より引用)

と、マンガにすべてをかける状態ではなかった。内田にしてみれば原稿代稼ぎの原稿ではなく全身全霊をかけた原稿が必要だった。

梶原は180cm、空手有段者、そして名うて酒豪。また、後に暴力団と共にアントニオ猪木を監禁事件や、講談社の編集者の暴行事件を起こしたりしたことからも一筋縄の人間ではない。

内田は必死の交渉の末、梶原に「マンガを男一生の晴れの舞台と心得て、根の続く限りやらせてもらいます」の言葉を得る。

梶原は「巨人の星」(父親と息子)、「あしたのジョー」(教師と教え子)、「愛と誠」(少年と恋人)などマンガ史に残る名作を次々と作り出す。

梶原の晩年に内田は先の暴行事件より梶原原作作品すべてが絶版状態になるなど絶縁状態だった梶原と講談社の関係修復につとめる。そして梶原が編集者暴行事件を起こした銀座の著名な文壇バーへの謝罪の同行を梶原から求められる(梶原は一人で店の敷居を跨ぐことは許されないと考えていた。内田に同行を求めたのは内田を偉大な人物と見做し、その内田を立会人とすることで心からの謝罪の証明としようとしたと思われる)。

梶原は同行してくれた内田への感謝の気持ちとして帰りのタクシーの間、ずっと内田の手を握り締めた。しかし照れくさかったのでずっと寝た振りをしていたとのこと。(引用 内田勝著「奇」)内田が同い年の梶原一騎からいかに信頼、尊敬されていたかわかる。

さいとう・たかを

さいとう・たかをは小学館のビッグ・コミックで長期連載中の「ゴルゴ13」のイメージから小学館系の作家のイメージがあるが、内田がサンデーと手塚治虫に対抗するための劇画路線を進めるうえでの重要人物だった。

水木と同じく貸本マンガ出身で、子供向けと思われていたマンガを大人の鑑賞に堪えうる作品にしようと情熱を燃やしていた。さいとうは大人向けのマンガを「劇画」とし、その言葉に強いこだわりを持っていた。

「自分の作品をマガジンに掲載するときは、”まんが”ではなく”劇画”と明示してくれますか」

「さいとうさんが説かれていることからいって、それは当然のことです」

映画製作のようにシナリオ、作画を分業するプロダクション制を初めて導入したり、出版部門を独立させ(リイド社)、自身の作品はすべてそこから出版するなど(ゴルゴ13も掲載雑誌は小学館のビッグコミックだが、単行本はリイド社から発行されている)、クレバーでありながら、女をめぐってチンピラと銃で撃ち合ったという噂がでるなど激しい一面をもつ「さいとう・たかを」とも互角に渡り合っていたようだ。

大阪万博で3000年後に開封を予定したタイムカプセルにマガジンを入れることになったとき、内田は巻頭グラビアに「劇画入門 1枚の絵は1万文字にまさる」を載せる。絵を担当したのはもちろん「さいとう・たかを」だった。

竹熊健太郎

竹熊健太郎は相原コージとの「サルでも描けるまんが教室」で有名な編集家、現在のまんが界で最も有能な論客の一人である。数多くの人のインタビューを行っているが内田について以下のような印象を語っている。

自分は、かつて内田さんにロング・インタビューを試みたことがありますが、 その明晰な話しかたに度肝を抜かれました。 頭の中でしゃべる内容が完璧に整理されていて、 テープ起こししただけでほぼそのまま記事にできた人は、 自分が経験した中では内田勝さんだけでした。

内田勝氏、ご逝去: たけくまメモ

いとうせいこう

内田は少年マガジンの後、月刊現代を経て「Hot Dog Press」という「POPEYE」の対抗馬の青年情報誌を創刊した。テレビでよくみかける山田五郎やいとうせいこうは彼の元で働いていた。

いとうせいこうは講談社在籍中にテレビ出演などの活動をしており、遂に講談社を退職して本格的にテレビやマルチメディアの世界に入る決心をした。そのときの様子がいとうせいこうのブログで詳しく書かれているのだが、とても感動的なのでそのまま引用させていただく。

内田さんは俺の辞表をすぐさま受け取り、こう言ったのだ。

「僕も出版の時代はもう終わりだと思います。伊藤さんはいい時期に辞めますね」

そして、これからはマルチメディアだという最後の講義を俺にしてくれた内田さんは、 これからどうするつもりかと質問をしてくれ、俺が “テレビなどの仕事をしていくと思います” と答えるや否や、テレビ局のトップに電話をかけ始め、 “うちから伊藤というなかなか見込みのある若者がそちらの世界に行くので、よろしく” と挨拶をし、受話器を置いてこう言ったのだ。

「さあ、行きなさい」

2008/6/1|readymade by いとうせいこう

その後

内田氏は「Hot Dog Press」の後、自身の集大成たるべき雑誌「DAYS JAPAN」を創刊するも、アグネス・チャンの公演料ミス問題より休刊となる。その責任をとって1994年講談社を退社。

徳間書店においてコミック雑誌の立ち上げ(1年で失敗)などもあるが、いとうせいこうに諭したように自身もマルチメディアで勝負していたようだ(結局は失敗してしまったようだが)。

その当時の断片は、 REALTOKYO(http://www.realtokyo.co.jp/)  の小崎哲哉氏のインタビューから伺える。

Tetsuya Ozaki intervew 1/2 -art drops-

「内田勝さんという、少年マガジンの黄金時代を築き上げた伝説的名編集長が、

『小崎君、そんなところにずっといたら駄目になっちゃうよ』 と再び東京に引き戻してくれたんです(笑)。あれがなかったら戻れていないですね」。

1990年代初頭、インターネットはまだ一般には広まっていなかった。 内田氏は電子出版や、将来的にはゲーム制作まで含めたシステムを構築しようという壮大な構想を練っていた。 しかし、この計画自体は1年も経たないうちに頓挫し、 計画に参加していた小崎さんの手元に残されたのは、 1台のマッキントッシュと周辺機器、そして100万円にものぼるローンだった。

その後、ソニーピクチャーズ顧問。、アニメ専用CS番組「アニマックス」の立ち上げにも参加、顧問となる。

2008年5月30日、肺がんにより死去。享年73。

葬儀はソニー・ピクチャーズが取り仕切った。

参考文献

内田氏を調べるにあたって、以下の2冊の本を参考にした。両書とも読み応え十分だし、今回のエントリーで紹介しなかった話も豊富なので興味を持たれた方は一読してほしい。

「奇」の発想―みんな『少年マガジン』が教えてくれた
内田 勝
三五館
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サンデーとマガジン (光文社新書)
大野茂
光文社
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