亘理の物語

April 13, 2011 at 10:10 PM | View Comments

亘理(わたり)は宮城県南の海沿いの町で、福島から流れる阿武隈川(あぶくまがわ)が海に辿り着くの河口がある。海沿いに南にいけば山元町(やまもとちょう)があり、さらに南にすすめば福島県相馬市になる。内陸を進むと角田(かくだ)を経由し温麺(うーめん)で有名な白石(しろいし)に辿り着く。海沿いを北に行けば、名取、若林、多賀城(たがじょう)、塩釜、松島、東松島、石巻へと続く。海沿いの町は松島を除くと今回の津波で大きな被害を受けた。

宮城の都市といえば当然仙台だが、これは伊達政宗が大きくした都市であり、古代(8世紀から10世紀)においては鎮守府兼陸奥国府の多賀城が有名だった。亘理に関する記述もこのころのものが最古となる。亘理には現在でも三十三間堂官衙遺跡というものが存在しており、これは当時の陸奥国亘理郡衙(郡役所)と考えられている。

平安後期には奥州藤原氏の祖となる藤原経清(つねきよ)輩出した。経清は亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)を称したと言われる。正確な出生の記録はないが、数世代前から奥州に定着した地方官僚だと言われている。経清は岩手の豪族安部氏と結び朝廷に反旗を翻し、源頼義と前九年の役を戦うが破れ、斬首される。頼義は経清を深く憎んでいたので長く苦しむように錆びた刀で経清を斬首したといわれる。安部氏の当主の安部貞任(あべのさだとう)の首は丸太に眉間に釘で打ち付けられて朝廷に送られた。奥州藤原氏と源氏の数世代に渡る戦いのはじまりだった。

経清の遺子である清衡(きよひら)は敵対した清原氏の養子になったが、成人したのち清原氏の内紛に源義家(頼義の嫡男)が介入した後三年の役で義家と共闘し勝利する。源義家の影響力も政治的に排除し、姓を藤原氏に戻し奥州藤原4代の基礎を築いた。父の敵の養子になり、異父兄弟に妻子を皆殺しにされ、父の敵の息子と共闘した上に奥州に一大勢力を築いた清衡の生涯は日本史の中でも最も劇的なものひとつと言える。

奥州藤原氏は福島の白河から青森にかけ現在で言うところの東北のほとんどを支配下に置き、砂金と北宋貿易で繁栄した。本拠地、平泉は京都に次ぐ日本第二の都市となる。中尊寺金色堂は現存するように柱、床まですべて黄金で覆われている。奥州藤原氏は東北を経済と仏教を礎にした文化により繁栄させた。 威勢は中国でも知られ、マルコポーロの黄金の国ジパングのイメージは奥州藤原氏であると考える学者もいる。

最盛期を築いた3代目秀衡(ひでひら)の弟である藤原秀栄は分家して国際貿易都市であったと考えられる十三湊(とさみなと)を治め十三氏を名乗る。この家系は鎌倉時代まで続いた。

※ 十三湊が博多と並ぶ国際貿易都市として栄えたのは14,15世紀と考えられるが、福島城など平安時代に遺跡も数多く存在する。

4代目泰衡(やすひら)のときに源頼朝による奥州合戦で奥州藤原氏が滅ぶ。泰衡の首はかつて安部貞任に行われたように眉間に釘を打ち付けられたという。

奥州藤原氏の出生の土地、亘理は頼朝の家臣、千葉常胤(ちばつねたね)の三男 武石 胤盛(たけしたねもり)が所領することになった。これが亘理氏の祖となる。

戦国時代早期になると政宗(まさむね)の曽祖父にあたる伊達稙宗(たねむね)が急速に勢力を拡大し、亘理氏は伊達氏の傘下に入る。稙宗は亘理氏の娘を側室にし、その子供を亘理氏の養子にすることに成功、亘理元宗(わたりもとむね)として亘理氏の当主となる。父 稙宗と嫡男晴宗と争いが勃発し(天文の乱)、伊達氏の勢力が弱まるが、亘理元宗は伊達氏の重臣・一族として晴宗、輝宗、政宗の代まで活躍する。

政宗が秀吉に降った後、葛西大崎一揆の責任を取らされ米沢から岩出山へ移封になると亘理元宗は遠田郡涌谷城へ移封される。亘理氏は元宗のあとも伊達氏家中で重きをなし、元宗の孫、定宗は関が原の戦い(にまつわる東北での上杉vs伊達・最上氏の争い)において、上杉氏の白石城を攻略している。定宗は伊達姓を名乗ることが許され(涌谷伊達氏)、亘理氏は政宗の庶子が継ぐことになった(佐沼亘理氏)。定宗の子、宗重(むねしげ)は有名な伊達騒動を起こすが涌谷伊達氏はその後も存続した。

亘理氏が亘理から去った後は、政宗の有力家臣だった片倉景綱(かげつな)(片倉小十郎)が亘理城主となる。関が原の後、景綱が白石へ移ったあとの1602年に重臣・一族の伊達成実(しげざね)が亘理に入る。

成実は亘理の開発に力を注ぎ亘理の生産力を倍増させた。領民に深く愛され現在でも祭りに「成実の山車」や出て、「成実ばやし」がうたわれるなど、今なお深く敬愛されている。

成実は若いころから片倉小十郎と共によく政宗を支えた。1586年の人取橋の戦いでは、壊滅寸前の戦線を支え、踏みとどまったことで政宗を後方に逃がした。政宗が矢1筋、銃弾5発を受けるほどの激戦だった。この戦いは後に軍談好きだった3代将軍徳川家光に物語り、家光に感銘を与えたという。

成実は兜に百足(ムカデ)をあしらった前立をつけていた「決して後ろに退かない」という百足の習性にあやかったものだという。

ゲジゲジ武将、伊達成実

成実は晩年に現在も存在する政宗についての軍記、逸話の著書を残した。

成実には跡継がなかっため政宗の9男宗実(むねざね)を養子とした(亘理伊達氏)。幕末まで亘理伊達氏が亘理を治めた。

幕末に戊辰戦争により仙台藩が官軍に敗れた際、仙台藩の降伏式は一国一城令により亘理要害と呼ばれていた旧亘理城で行われた。仙台藩は62万石から28万石へ削減され、亘理伊達氏15代当主伊達邦成(くにしげ)も2万石から58石へ削減された。そのため邦成は家臣団と共に北海道胆振国有珠郡支配へ開拓・移住を決断した。邦成は自ら鍬を振り開拓につとめた。現在の北海道伊達市である。後に邦成は北海道開拓の功により朝敵の汚名を返上し男爵に叙せられた。

明治12年に伊達成実の遺徳を慕う亘理の民たちは、亘理要害の本丸あとに亘理神社が建立し成実を武早智雄命として祀る。

亘理は今回の地震と津波により多くの家屋が津波にながされ、多くの人々が亡くなり、避難生活を続けるひとも多い。

この文章は亘理と亘理の人々のために書きました。亡くなった方々の冥福を祈ります。

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